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川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう)
テレビ発明の先覚者 魚津の三太郎博士
テレビジョン研究第一人者
川原田政太郎(1890〜1983)は現魚津市下野方本江に生まれました。
魚津尋常高等小学校(後の大町小学校(廃校))を卒業した後、代用教員などをするなど働きながら学び、明治44年、早稲田大学理工科与科に入学。大正4年、同大学理工学部電気工学科を卒業。暫く会社勤めをした後、早稲田大学に戻り、大正11年に早稲田大学助教授としてイギリスやフランスへ留学の途につきました。欧州各国における初期のテレビジョン研究に多大の関心を抱き帰国後、早稲田大学、山本忠輿博士の研究室でテレビジョンの研究を始めました。(大正15年には工学博士、教授)
当時はテレビジョンの実用化は技術的に極めて困難であり、研究員のめども立ちませんでしたが、やがてNHKなどの援助が受けられるようになり、昭和5年に東京の朝日講堂において世界初の大型テレビジョンの公開実験で成功をおさめ、今のテレビジョン隆盛の基盤を確立しました。
昭和36年早稲田大学名誉教授となり、昭和44年生誕地の魚津市初の名誉市民に推されました。
川原田政太郎博士は時代の要請に沿う発明考案を多数行い、特許、実用新案等の数は60にも及んでいます。
参考文献等
ビジュアル富山百科(監修 宮口侗廸)
郷土の先覚100人(北日本新聞社編)
川原田政太郎は時代の求めるところに敏感で、戦後の食糧不足に対応して、甘藷(サツマイモ)キュアリング貯蔵法を発明し、当時の主食とも言えるサツマイモの長期保存を可能にしました。
また、政太郎は時計の神様とささやかれた程、数多くの時計を発明しており、昭和6年、上野の地下鉄ビルに取り付けられた直径18メートルの文字盤の大時計や、東京駅などの主要駅に掛けられた正確無比の時計は有名です。
魚津市では世界的科学者になる川原田政太郎、盛永俊太郎、宇田新太郎、この魚津市出身の三人の名前に共通する太郎をとって「魚津の三太郎博士」と呼んで敬愛の念を深くしています。魚津の三太郎は明治30年代から40年代初め(明治11年魚津城址に建設)魚津尋常高等小学校(後の大町小学校(廃校))に学びました。三人の少年が後に短期間のほぼ同年代に不世出の大人物を三人も世に送り出した学校もまれであるといえます。
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場所 | 富山県魚津市本江 (川原田政太郎博士生誕地記念碑) |
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