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宇田 新太郎(うだ しんたろう)

世界で使われている「八木・宇田アンテナ」 魚津の三太郎博士


宇田新太郎(1896〜1976)は下新川郡舟見町(現入善町)に生まれました。
教職にあった両親の転勤で小学校3年の時から魚津に移り住みました。魚津尋常高等小学校(大町小学校(廃校))、魚津中学(現魚津高校)、広島高等師範学校(現広島大学教育学部)を経て、中学で教鞭をとりましたが、研究への熱意から大正10年東北帝国大学(現東北大学)工学部電気工学科に入学。卒業後も大学に残って研究生活に入り、昭和2年同大学部助教授、昭和11年に教授となりました。その間、昭和6年に光学博士の学位を得、翌年から2年余、欧米に留学。

世界で使われている「八木・宇田アンテナ」の発明者
数多くの研究の中で最も有名なものは通称「八木アンテナ」と呼ばれる「八木・宇田アンテナ」です。このほか超音波無線電話機の開発や、極超短波による通信の研究でも、大きな成果をあげました。

インドとの関係も深く、昭和30年から3年間、インド国立物理研究所の地位にあって、インドの若手研究者の育成に努めました。
昭和35年、東北大学定年退官。名誉教授の称号を授与。翌年からは神奈川大学教授として赴任。学究と研究者育成に尽くした生涯でありました。

東北帝大(東北大学)は当時(昭和初期)弱電部門の研究が最も進んでました。
宇田博士はここで先ずVHF帯の電波の研究を行いました。VHFの電波は途中に金属を置くと妨害されると考えるのが当時の常識であったが、宇田博士は金属棒の長さを到来電波の半波長より少し短めにすることにより、金属棒が電波を導く、導波器になることを発見。これを実用化したのが「八木・宇田アンテナ」です。
宇田博士はさらに極超短波の研究に取り組み、「極超短波」という用語は宇田博士の造語で、通信実験は当時(昭和初年)世界で最も進んだものでした。晩年はレーダー光線の研究にも取り組みました。

魚津市では世界的科学者になる川原田政太郎、盛永俊太郎、宇田新太郎、この魚津市出身の三人の名前に共通する太郎をとって「魚津の三太郎博士」と呼んで敬愛の念を深くしています。魚津の三太郎は明治30年代から40年代初め(明治11年魚津城址に建設)魚津尋常高等小学校(大町小学校(廃校))に学びました。三人の少年が後に短期間のほぼ同年代に不世出の大人物を三人も世に送り出した学校もまれであるといえます。

TRIVIA
【世界的科学者】
魚津市では世界的科学者になる川原田政太郎、盛永俊太郎、宇田新太郎、この魚津市出身の三人を「魚津の三太郎博士」と呼んで敬愛の念を深くしています

【八木・宇田アンテナ】
今日でも世界の各家庭で使われている「八木・宇田アンテナ」。1928年に八木・宇田の連名で論文が出されましたが、特許出願が八木教授の単独名で出されたため、考案者の宇田の名が影になってしまいました

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