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魚津城跡

「上杉の悲劇」とよばれた魚津城の戦いの舞台


魚津城は、旧魚津市街地の中心部に位置する平城で、椎名孫八入道胤明が建武2年(1335年)に築城と伝わっていますが定かではありません。
北陸道の押さえとなる一方、松倉城への主要ルートと考えられる角川の河口に位置する海陸の交通の要所でもありました。
天正10~11年に織田勢が上杉方を制して以来、佐々成政、次いで前田利家の支配下となり、江戸時代初期には廃城となりましたが、重要な地にあることから、加賀藩は米蔵や武器庫を置いて万一に備え、周囲に郡代行や奉行所などを配したので、魚津街は近世城下町として新川群の政治・軍事の中心として繁栄しました。
明治初期ごろまで、堀や土塁などが残されていましたが、のちに破壊されて当時を偲ぶものは何もありません。城址の様子は天明5年(1785年)の「越中魚津街惣絵図」に描かれており、これによると本丸とそれを三方から囲む二の丸が見てとれますが、二の丸は元々四方を囲むものであったと推定されます。

この掲示板に魚津城の歴史が…

2009年大河ドラマ『天地人』ゆかりの地として、魚津城の戦いが注目されました。
柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦いです。
天正10年3月23日、魚津城の指揮官の中条景泰は、上杉景勝の側近直江兼続宛てに救援要請と落城間近で決死の覚悟であること訴えましたが、景勝はすぐには来られずようやく天神山に布陣したのは5月15日です。しかし、織田軍に二の丸を占拠された為、魚津城への救援は妨害され、さらに織田軍が上杉方の本拠地である越後の春日山城への侵攻の動きをみせたこともあり、景勝は26日に天神山城を撤退し、魚津城は孤立無援の状態になります。その後、篭城戦を展開しましたが、魚津城内では兵糧も尽き落城を悟った上杉方の守将12人が自害して魚津城は6月3日に落城しました。
一方、落城前日の6月2日に「本能寺の変」が起こっていました。織田信長が明智光秀の謀反にあい、自害を遂げたという知らせが魚津城に届いたのは、落城後の6月5日以降といわれています。知らせがもう少し早く伝わっていたら、悲劇的な結末を迎えることはなかったかもしれません。
当時を偲ぶものは、石碑や常盤の松、上杉謙信の歌碑のみです。

【上杉謙信の歌碑】

【上杉謙信の歌碑】
「武士の鎧の袖を かたしきて枕に近き 初雁の声」
魚津市史によれば、天正元年(1573年)4月に甲斐の武田信玄が病没し、越後の上杉謙信が越中及び加賀の半ばを制圧したと記しています。この歌は、ちょうどこの頃、越中に攻めいった上杉謙信が魚津城外にて詠んだものとされています。初秋、魚津城の地にて鎧をつけたままの上杉謙信が万感の想いを込めて口ずさんだものです。現在、常盤の松とともに歌碑が置かれています。

TRIVIA
2代目「常盤の松」
2代目「常盤の松」
TRIVIA
【常盤の松】
「常盤の松」は2代目で1967年の植樹されたものですが、1代目は上杉謙信公お手植えの松だったと伝えられています

【12守将】
12守将は自分の耳に穴を開けて、自分の名前を書いた木札を全員で結び自刃したといわれていて、その12守将の供養塔が、川原町の華王子(けおうじ)にあります

Information

場所 魚津市本町1-10-39
交通アクセス 魚津ICより 車で10分
あいの風とやま鉄道魚津駅より 車で10分
電鉄魚津駅より 徒歩3分
市民バス 市街地巡回ルート:県総合庁舎前
文化財指定など 市指定文化財 史跡 昭和38年4月1日
その他 【ご利用案内】禁煙

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