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魚津漆器

自然素材だけで作られた環境にやさしい器

魚津漆器の歴史

魚津漆器の歴史
魚津漆器の起源は、漆器の素地を作る「木地師」が室町時代末期に飛騨の双六谷から松倉に来たことから始まるといわれています。その後、江戸時代初期に片貝川上流域の平沢へ、入善町の椚山に移住しました。下新川郡の山にはブナ、トチ材が豊富であったと思われます。
またこのころの新川地方(県東部)は北陸でも最大の漆の産地でもあり山間部一帯で採集されていました。漆は武具や弓矢の接着剤として利用されており、金鉱と同じように城主の資産として大切に保護されていたようです。
このように木地・漆などがそろい魚津漆器は日常雑器を中心に堅牢かつ安価で実用的であることを特徴にして制作され大正期には魚津町の一大産業にまで発展していきました。

現在は、鷹休漆器店(大正10年開業)1軒だけが輪島塗の技法にさらに本堅地塗なども取り入れて魚津漆器の技術を受け継いでいます。 同店の商品は埋没林博物館や海の駅蜃気楼でも購入することができ、魚津の土産品としても人気となっています。

鷹休漆器店では赤と黒の漆を分けて塗り、境目をぼかして表情を出したものを「蜃気楼塗」と命名しました。蜃気楼のごとく、幻想的な雰囲気があり1客ごとに表情が違うのが魅力です。

明治時代後期に「魚津漆工会」が結成されるなど組織化が進み、大正7年には、製造戸数69戸、職人数125人を数え、魚津の一大産業として栄えたこともありましたが、戦争で漆液の入手が困難になったうえ、贅沢品として漆器自体に高額の税が課せられた影響で衰退が始まりさらに、高度成長期に生活様式が変化し、漆器離れに拍車をかけました。さらに、昭和31年9月の魚津大火によって、長い伝統をもつ魚津漆器の業績のほとんどが残念ながら焼失してしまいました。
松倉城落城後、木地屋集団の一部が市街地に出て引き続きロクロを挽いたり、塗師になったりし、魚津漆器の伝統を受け継いだと言われています。その証として、元々松倉にあったとされる、照善寺は奥平沢、照願寺は古鹿熊から飛騨の双六谷など、常徳寺は椚山、六郎丸に門徒が多いことからも木地屋に関係している可能性が高いと言えます。

参考資料文献・取材元
魚津市史、鷹休漆器店
伝説とやま・山村経研究所、鷹休漆器店配布資料

TRIVIA

TRIVIA
【手作りの魅力】
輪島塗の1個の椀が仕上がるまでには、木地作りから始まって、沈金・蒔絵の加職(装飾)が施されるまでに、約40工程、124の手数がかかります

【漆の語源】
漆の語源は“麗しい”。しっとりとした肌触り、艶やかな質感はまさに「麗しい」そのものですね

【木地屋神社】
片貝川上流域の平沢にはいまでも「木地平」という地名が残いるほか、六郎丸にある北陸精機さんには木地平で風化していた木地屋神社が修復され木地屋神が安置されています

Information

開催日時 営業時間 午前9時~午後7時
定休日 不定休
場所 富山県魚津市中央通り1丁目7-12
市民バス 上野方ルート:中央通り二丁目
TEL/FAX TEL 0765-22-0857/FAX 0765-22-0857

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