魚津ライブラリ
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米騒動発祥の地
米騒動に関する遺跡は全国的に少ない
米の積み出しを止めるように要求した運動
魚津町は江戸時代から越中東部の政治・経済の中心地でした。
明治時代の近代化とともに、貧冨の格差増大や都市の人口増による米不足、大商人による米価の吊り上げが起こっていました。大正7年7月23日、北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まり、「米の値段が高くなるのは、県外に米を持っていくから魚津に米が無くなるのだ!」と、米の積み出しを止めるように要求し、このため米の搬出は中止されました。この事件が新聞に報じられ、米騒動は近隣の村や町、1道3府40県に及ぶ全国的な米騒動に発展し、その後、内閣を総辞職に追い込む事態に発展しました。
日本の近代史を語る上で、大きな事件である米騒動に関する遺跡は全国的に少ないです。
米騒動が起こった現場に、当時の建物が現存するケースは、旧十二銀行米倉の他にはありません。魚津では、この地を米騒動発祥の地として顕彰しています。
魚津市は、1918年(大正7年)に米騒動が起きた7月23日を”魚津米騒動の日”として熱い思いを後世に伝えるべく動き出しています。平成23年に旧十二銀行(現北陸銀行)・米倉を同日、一般公開しました。
※ 通常見るには手続きが必要です(教育委員会迄)。
米騒動が近年迄語られなかったのは、当時、罪悪感の強い不名誉な事件として受止められていたためです。その証拠に、その後、戦争に出かけた人達が、魚津や滑川出身と言うだけで差別をされたとの事です。地元では最近まで全くと言っていいほど語られず、今日に至っていました。現在はNPO法人米蔵の会などがあります。
魚津港の大町海岸では、大正、昭和にかけて、多くの米が魚津港から積み出されましたが、男は出稼ぎに行くため、大勢の女仲仕が蟻の行列のように並んで、60kg米俵を背に、揺れる橋板を艀へ運び、ひどい重労働で稼いでいました。
2010年の米倉修繕の際には、色々と見所が見つかり当時の造りが分りました。
【旧十二銀行米倉のここが見所!】
米倉屋根・南面外側・東面外側・北面の下屋の屋根・入り口周辺・米倉内部などが珍しい構造となっています。
(※内部見学の場合は魚津市教育委員会に申し込みが必要です)
Information
場所 | 富山県魚津市本町1-2-33 |
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交通アクセス | 魚津ICより10分 滑川ICより25分 あいの風とやま鉄道魚津駅より10分 |
市民バス | 県総合庁舎前(市内東回り) |
駐車場 | あり |
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